京都らしい場所案内Blog コーエイのスタッフが京都の街をご案内します。

西本願寺

ueda
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新年明けましておめでとうございます。

今年も京都の良いところをどんどんご紹介していきたいと思います。

営業の上田です。

 

今日、ご紹介するのは京都駅から程近くにあります。

浄土真宗本願寺派の本山

西本願寺(正式名称 龍谷山本願寺)です。

 

京都市民からはお西さんの愛称で親しまれています。

 

すぐ近くに真宗大谷派の本山である

東本願寺(正式名称真宗本廟)が

ありますが元は一つの寺だったのです。
 

では、なぜ現在のように西と東に分れることになったのか

皆様ご存知でしょうか?

 

それには、誰もが知っているあの3人の戦国武将達との

深い関わりがあったのです。

え!?誰?誰?って?Σ(゜Д゜;≡;゜д゜)

それは

 

 

1人目 織田信長

戦国時代最大の宗教的武装勢力であった本願寺が、

天下統一を目指す織田信長と戦った。当時本願寺は京都ではなく

大阪御坊(石山御坊)にあったことから石山合戦と言われる。

この戦いは10年間続いた。

合戦末期になると、信長との講和を支持する

顕如(第十一世宗主)勢力(穏健派)と

徹底抗戦を主張する

教如(顕如の長男)勢力(強硬派)とに分裂していく。

信長と和議が成立、大坂石山本願寺を退去。

 

 

2人目 豊臣秀吉

豊臣秀吉から京都への寺地寄進を受け現在の場所に移築する。

顕如が死没すると教如(長男)が本願寺を継承するが、

教如は石山合戦での元強硬派を側近に置き、

元穏健派を重用しなかったため教団内の対立に発展する。

のちに元穏健派の働きかけで

秀吉の命により教如は退隠させられる。

三男の准如が第十二世宗主を継承。

 

 

3人目 徳川家康

関ケ原の戦いで勝利した家康は、

同戦いで協力した教如を法主に再任させようと考えるが、

本願寺教団の力が大きな脅威であると考えていたため

本願寺の分立を企図する。

家康より烏丸六条に寺領を寄進され

教如は本願寺の第十二代に就任する。

このことにより本願寺は、

「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに

分立することとなる。

 

 

京都に住んでる方もどれくらい知っていることでしょう。

残念ながら僕は知りませんでした^^;

こうした歴史的・政治的背景があって

現在の西と東に分かれたんですね。

観光ガイドブックなどには載っていないこんな情報も

なかなか興味深いものです。

 

 

では、また次回。


2012年1月16日 | カテゴリー:見る  |  スタッフ紹介へ

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